はじまりのシーチキン vol.1-3【手付かずのフルコース】
梅雨は命を潤わせる。
雨を喜ぶ生き物たちがいる。
そして雨がやみ日が強くなり、今度はそれを喜ぶ生き物たちがいる。
みんなどこかに生きやすい季節を持っている。
神様、もしもあなたがいるのなら
私が生きやすい季節はいつ作ってくれますか。
温まったからか、肩の力が抜けて呼吸がしやすくなった。
濡れてしまった部屋着を洗濯機に入れて、柔らかい部屋着へ着替える。
湯船に浸かってしまった毛先をタオルで拭きながら、少し冷静になる。
名前も素性も知らない男の人の家でお風呂に入った。
私は何をしているんだろう。
下校中に具合が悪くなったことは覚えているが、その先が全く分からない。
知らない男の人の使っているお風呂で裸になるのには抵抗があったが、それを察してくれたのか着衣で入浴させてくれたし、あげく自分は今夜温泉に行くという。
悪い人では、ないようだ。
それどころかすごくいい人のように思える。
彼は今外出しているが、この隙に私が泥棒して逃げ出すとは考えなかったのだろうか。
…考えなかったのだろう。
ドライヤーを借りて髪を乾かし終えたところで、彼が帰ってきた。
脱衣所から顔を出し、ありがとうございました、と頭を下げる。
「あ、ただいま」
はにかんだ彼は両手にコンビニの袋を抱えていた。
「少しは温まれた?タオルは洗濯機にかけて、リビングにおいで」
おいで、という響きに少し照れくさくなる。
あたたかい。
彼は食事を買ってきてくれていたようだ。
「なにが食べたいか分からないから、適当に買ってみた。何がいい?」
お弁当、サラダ、菓子パン、おにぎり、サンドウィッチ、クッキー、ゼリー、様々な種類の物が机に広げられている。
「好きなだけ食べなね」
「…じゃあ、おにぎり頂いてもいいですか」
彼はにこっと微笑む。
「シーチキンと梅干し、どっちがいい?」
「シーチキン、にします」
彼はおにぎりを包んだ袋を開けてくれる。
「好きなの?」
上部分が開いた袋から、おにぎりが顔をのぞかせている。
「お昼ご飯でたまに食べるから。その、匂いとかで怪しまれないし、家の人に」
「歯磨きしたら…歯磨き粉の匂いでばれちゃうのか」
彼女はこくん、とうなずいた。
普通だったらばれないのにね。
君はそういう環境にいるんだね。
彼女は小さな一口を少しずつ重ねていった。
私が食べ終わると、時計の針は10時を示していた。
「君もそろそろ帰らないとね。車で送るよ、制服に着替えておいで」
カーペットに足が吸い付いたように、立ち上がれなかった。
嫌だ、なんて言えるはずもない。
言葉なく俯いていると、彼が私の隣でしゃがみこんだ。
顔を覗き込んでくる。
「人は、心の隙間の部分を使って生きてるんだ」
彼は少し恥ずかしそうに、私に笑いかけた。
「幸せはね、心を少しずつ温めてくれる。ぼくらを固く張りつめさせている、氷みたいに冷たくて痛々しい不安を溶かしてくれる」
「時間をかけてそれが気体に変わったら、僕らは深呼吸のついでにそいつらを吐き出すの。そしたら心が少し広くなって、その余白を何かのために使うんだ」
「考えるのも、立ち向かうのも、歩き出すのも、余白が必要だから。今は何もしなくていい。ただ、またいつでもおいで。僕はここで君を待ってるよ」
すぅっと、私の頬を涙が駆けた。
その日から、彼の部屋は私の帰る場所になった。