はじまりのシーチキン vol.1-2【手付かずのフルコース】
人はどんなときに泣くのだろう。
悲しいとき。
嬉しいとき。
感情があふれて涙になるのだとしたら、
こんなにも胸を満たしている虚無は私が感じているものではないのかもしれない。
何もないわけではなくて、確実に何かが息をつまらせている。
あふれるほど大きいはずなのに、涙にもならない。
それは心ではなくて、鈍く働く理性の管轄になってしまったからか。
日常というささやかで他愛もないタスクすら、私には壁として立ちはだかる。
そしてその壁は永遠に続く。
当たり前のような絶望に、立ち向かう術を私は知らなかった。
その日までは。
目が覚めて、肌心地の良さを感じた。
カーペットの上に私の足が投げ出されて、その周りだけ水分で色が暗くなっている。
壁にもたれた私の視界には知らない部屋が映っていた。
電源の入っていない小さなテレビ、リモコンや鍵が放り投げられたテーブル、一人用の座椅子、壁に向けられたパソコン用デスク、小さなキッチン。
ゆっくり部屋を見渡しながら隣へ目線を移すと、心配そうに男の人がこちらを見ていた。
「体調、だいじょうぶ…?」
自分の身体が毛布に包まれている。
頭がぼーっとする。
「ここは」
「あ、ごめん、おれの部屋。勝手に連れ込んだみたいになってごめん、君がどうしても」
泳いだ目と視線がぶつかると、彼は言葉をとめた。
「いや、目を覚ますか心配で仕方なかった。よかった。本当に、よかった」
悲しいような顔で喜ぶこの人はきっと優しいのか、すごく悪い人かのどちらかなのだろう。
「君ね、ずぶぬれで倒れていたんだよ。身体冷えただろ、風呂はいっておいで」
彼は脇に用意していたらしい部屋着を私の足元に置いた。
「これに着替えて、服脱いでお風呂入りたくなければこれ着たままでもいいから、湯船につかってあったまっておいで。その間に君の制服を乾燥機にかけてくるよ」
立ち上がった彼を見上げる。私の頭はあまり話に追いついていけない。
「近くにコインランドリーがあるから、おれは20分くらい外にいるからね」
彼は既に湯船を貯めた温かいお風呂場に案内してくれて、もらいものでまだ使っていなかったバスタオルがあることと、着衣で湯船につかったあとの着替えまで教えてくれた。
下着はコンビニで買ってきてくれていたようだ。今回だけ我慢して、気味が悪ければすぐに捨てていいと言われた。
「おれは今夜は君が帰った後温泉にでもいくから、気にせずに使っていいからね」
脱衣所で水を吸った重たい制服からふわふわの部屋着に着替えて、リビングで待っていた彼に渡した。
同じくコンビニで買ったペットボトルの温かいお茶を私の手に持たせると、彼は「ゆっくりしなね」と言い残して出ていった。
言われるがまま、服を着たままお風呂場に踏み入れた。
あの人が掃除をしてくれたからか、床が濡れている。
足の裏の冷たい感触と、空気の温かさ。
お風呂場と、部屋着。
ここと、私。
何もかもがおかしくて、よく分からなくなった。
シャンプーはボディーソープは匂いがつくから、家の人にばれるかもしれない。
シャワーを軽くあびると、服がまた重たくなった。
湯船につかろうと、重たい足を引き上げる。
水面に触れた足先が一瞬冷たく感じられ、そしてそれはしびれに変わった。
じんじんする。
足先の血液が一気にめぐり始めたようだった。
ああ、私は生きてるんだ。
しびれを感じながら、少しずつ身体を溶かしていった。