170710 知らないということ。
こんばんは、こたろーです。
今日は納豆の日らしいですね。
7月10日だからですね。シンプル。
昔は納豆苦手でした。
まぜまぜして、掴みづらいつぶつぶたちをそっと掴んで、ようやく口に運べたと思ったら口から離したお箸も糸をひいちゃって。
食べづらいことこの上ない。
いまはだいぶ好きになりました。
納豆とかオクラとか梅ペーストとかをご飯にのっけて食べるの、最高ですね。
夏が始まる前に、身体を元気づけるって大切です。
今日の二つ目のテーマは、知らないということです。
「知る」という行為って、不可逆的なんですよね。
一度知ると、知る前には戻れない。
忘れる、は知る前の状態と全く同じではありえない。
では、「知らない」とはどういうことなのか。
まず、勉強に例えて考えます。
めちゃめちゃ成績がいい子ってクラスに一人はいますよね。
それも、あんまり勉強してなさそうに見えるのに成績がいい子。
そういう子たちは「知らない」から「知る」への転換が早いのか。
それとも、そもそも「知らない」がなくてなんとなくわかるのか。
彼らにとっての「知らない」のうち一部は、「未知」の事柄、というよりは
「たまたままだ出会わなかっただけ」の事柄、ではないでしょうか。
今までに出会ったことはない。
でも今までに学び得た「既知」を組み合わせれば解き明かせる。
「既知」を駆使しても手も足もでない。
ここまでこないと「知らない」判定にならない。
そもそも「知らない」ことが少ないのは、彼らが見たことないものでも立ち向かえると知っているからではないでしょうか。
少し話はずれますが、「自分はできる」ということを知っているのは人生における大きな財産ですよね。いいなー。
仕事に例えると、
めっちゃ仕事できる人も「知らない」の裁き方が上手です。
初めての事態に陥っても冷静に対処法を考えられる。
働いていると
「知らない」よりも「分からない」の方が怖いかもしれません。
少なくとも僕はこわい。笑
考えてもわからない。
これが一番こわい。
学生ほど「知らない」がこわくないのは、調べることが許されているからですかね。
「知らない」ということは自分の中にサンプルがないということ。
だけど、それには対処ができるはずで、今までのことを応用してみたり、調べてみたり、あがくことでどうにかできることもあるんですよね。
それでも「分からない」こと、それは自分の能力を超えているということ。
新たな考え方や知識を得るきっかけ。
ぼくたちが世界中の全事象を既知にすることはおそらく不可能ですから、きっと「知らない」や「分からない」は恥ずかしいことではないんですよね。
だけどどこかでぼくらは線引きをしていて、
「この年齢なのにこれを知らないのは恥ずかしい」
「この年数働いてこれができないのは仕事ができない」
なんて考えてしまうんですよね。
だけど、自分の中の「知らない」を大切にしてあげれば、次の自分への踏み台になってくれる。
「知らない」ことがあるからこそ、それを「知っている」に変えられる。
恥ずかしいけど質問してみたり、難しければこっそり調べてみたり。
その一歩がぼくを変えてくれるんじゃないかなぁ。
逆に、僕が質問されたら丁寧に笑顔で褒めながら、僕の知っていることをお伝えしたいなぁ。
今日は月曜日。
知らないことに触れることもあるけれど、今週も自分をごまかさず丁寧に働こう。
最後まで読んでくれてありがとう。
まだ月曜日だからね、金曜日まで笑顔でいられるように今日は早めに寝るんだよ。